【9歳】ギフテッド2E児 自己肯定感だだ下がり 母は育児がつらいと感じ始めた 4年生の頃

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反抗期

9歳頃のギフテッド児はどんな感じ?

本人にとっても母親の私にとっても大きな壁にぶつかったのが4年生の頃でした。

4年生の前半は新型コロナウィルス感染症の影響で日本へ緊急帰国、後半はまだ落ち着いていませんでしたが駐在先に戻りました。

この頃は私の中では暗黒期です。色々な本を読んだり発達にまつわるオンラインのセミナーも参加したり、知識は短期間に沢山つけましたが、実際、息子を目の当たりにすると何をやってもうまくいきませんでした。

育児を楽しんでいた頃が遠い昔のように感じるほど、つらい日々でした。

今回は4年生頃の様子です。とにかく激しい日々で、色々なことがありすぎてここに書いていいのかわからないようなこともありました。これから書くことが全てではないのですが出来る限りお伝えしていきます。

目次

WISC−Ⅳを受ける

WISC(知能検査)を受けたのも9歳でした。

前回の一時帰国の時は時間がなく予約ができなかったのですが、今回は長期滞在になりそうだったので1ヶ月後に検査の予約を取り、検査をしました。

検査の結果、発達の凸凹(ディスクレパンシー)がとても大きく、本人も生きづらさを感じているでしょうとのことでした。

1年前にも「ギフテッドかもしれませんよ」というアドバイスはいただいていたものの、機会がなく検査ができなかったのですが、この知能検査の結果をもってこのタイミングで医師より

ギフテッド2Eということで良いでしょう

と認定を受けました。今までの激しさと理解不能な言動の原因がわかってほっとしたと同時に、これからどう育てていったらいいのかわからず、不安になりました。

久々の日本の小学校に通ってみて

4年生の1学期のみ一時帰国先の公立小学校に通いました。

クラスの女子と口論をしたり、心無いことを友達に言います。と、早々に学校から電話がかかってきたので、先生も手を焼いているようでした。

その後、WISCの検査結果をもとに、先生にも説明し、徐々に周りも理解してくれたり、本人も適応しようとし、大きなトラブルもなく通うことができました。
大目に見てもらうところは大目に見てもらい、算数は課題を追加してもらったりと授業も参加することができました。

この年齢の頃にはもう「自分がちょっと周りと合わない」ことにはすでに気づいており、たまにみんなと話が合わない、笑いのツボがみんなと違う、というようなことを言いながら、通っていました。

半年という短い期間でしたが、ピアノなどを披露して、得意な部分を認めてもらうことで存在を認めてもらえたり、居場所を自分なりに見つけ、適応しようとしている姿が見られました

インターナショナルスクールに通い出す

9月に駐在先に戻り、いよいよインターナショナルスクールに通い始めました。世界的にもまだコロナが全く落ち着く様子もなかったので戻るかどうかとても悩みましたが、当時のかかりつけ専門医に相談したところ

とりあえずやってみたら?ダメだったらまた帰ってきたらいいじゃない。

と背中を押してくれました。

息子本人が希望したことなので、応援したい気持ちもある反面、私としてはインターに通っている間の日本の勉強はどうするのか?また駐在先に戻ったら療育はどうするのか?など色々不安な面もありました。

勉強面に関しては、医師に

こういうタイプの子は別に一年くらい学校に行かなくても後でなんてとでもなりますよ

と言われたのを信じることに。

結果的に、息子にとって学校が唯一の居場所となり、学校を変えたことはとても良かったです。確かに勉強も1年くらいどうっていうことはありませんでした。

しかし、学校を変えたからといって学校生活の問題はなくなりましたが、生活そのものが落ち着いたわけではありませんでした。

育児=つらい

今まであまり辛いと思ったことがなかった育児ですが、9歳の頃、「育児=つらい」と思うようになりました。
つらいと感じていた一部をご紹介します。こちらはほんの一部です。

暇を持て余してゲームやiPadに夢中に

日本ではコロナ禍においてもやりたいことが多すぎて一日の時間が足りない!と言って、睡眠時間を削るほどでしたが、駐在先では帰宅後暇すぎて時間を持て余していました
習い事はコロナの関係もあり、ピアノくらいしかしていませんでした。

オンライン英会話()は続けていましたが、それくらいで学校から帰宅した後は、遊びに行くにしても法律的に親と同伴でないとどこも行けなかったり、近所に同学年の友達がいなかったりでいつの間にか公園にも行きたがらなくなりました。

家の中で釣り竿を振り回してみたり(壁にルアーが当たりまくって壁が傷だらけでもお構いなし…)、工作に没頭したり(作るものは某ゲームを真似て銃や斧…)はしていましたが、それでも本当に魚が釣れるわけでもなければ、工作も100均で日本なら簡単に手に入った物が手に入らず思うように作れなかったりと、色んな葛藤を抱えていたように思います。

学校に行って帰るだけでは毎日エネルギーは有り余っており、そのどうしようもない思いやエネルギーを家族に向け、ちょっとしたことでカッとなり手をだしたり、暴言を吐いたりするようになりました

そして、することがないので、iPadやゲームに没頭するようになりました。最初の頃は、ルールのもと許可していましたが、そんなルールも「守る意味がない」とのことで、ルールも破り好き放題するようになりました

ルールも一方的に決めるのではなく、必ず一緒に話し合って決めていきます

本人も納得したうえでのルールなのですが、時間の見通しを立てたり、計画的に物事を進めることが苦手です。また、区切りをつけて切り替えるといったことも著しく苦手なので、ゲームやiPadのように終わりがないものを終わらせることは本当に難しかったです。

「時間だよ」なんて声をかけると「うっせー、わかってんだよ!!!!」と返ってきます。

学校や外では何の問題も起こしていなかったのですが、怒りの矛先は全て家族に向けられました。

自己肯定感が下がる

当時は、また環境が変わったこともあり、些細なことで親と口論になることが増えました。きっかけも覚えていないのですが、以下、息子語録です…。小4でこんなことを言うのかと驚かれたらすいません。

「こんな親の元に生まれてこなければよかった」

「もう一度人生やり直したい、もし生まれ変わったらハエかもしれないけどな!ハエの方がマシかもな!」

「こんな素人の親は嫌だ」「ベテランの親なら違っただろうな」

「俺の人生をめちゃくちゃにしやがって」

「こんな風に産みやがって」

「30年後に生まれてきたかった、そしたら違う親だっただろう」

…などなどまあ次から次に親への文句が出てきます。心理士さん曰く、息子は「わーわー言って外に向けるタイプ」とのことでした。反対に、内に内に入って引きこもりのようになっていくタイプもいるとのことでした。

ちょうどこの頃は「9歳の壁」と言われ、「身体も大きく成長し、自己肯定感を持ちはじめる時期 であるが、反面、発達の個人差も大きく見られることから、自己に対する肯定的な意識 を持てず、劣等感を持ちやすくなる時期でもある。」とされています。

日本でWISC-Ⅳを受けた時に、心理士さんから本人には発達の特性があり、得意な事と苦手なことがあるのは少し話してもらったのですが、詳しく2Eの部分については伝えていませんでした。

当時息子自身も冷静になると、荒れている自分を客観視できるようで、

自分の意思とは関係なくそうなってしまう、止められないんだ、僕だってどうしたらいいかわからない

と言うようなことを言っていました。
当時のカウンセラーの方と相談して、本人へ特性の部分を告知してもいいだろうということでこの少し後(5年生の1学期)に発達特性について本人告知をしました

言い方によって自己肯定感を下げてしまうと思ったので伝え方が難しかったです。結果的にこの時期は伝えたことによって自己肯定感はかなり下がっていたと思います…。

今まで常にポジティブで前を向いて進んでいくタイプだった息子が、「どうせおれなんて」「どうせそんなことやったって」とネガティブな発言が増えたのは本当に心配になりました。

二次障害?反抗挑発症を疑う

この頃は、毎日「漢字やったの?」と声をかけても、「漢字なんて俺には必要ない」と言った言い争いや、漢字の書き順をめぐり大喧嘩をしていました。今考えるとどうでもいいことで私もムキになっていたなと思うのですが、その当時は、日本の勉強の遅れも気になって、色々と過干渉気味になっていました。

当時、特性は頭では理解していても、実際は息子に「最低これだけは」というように半ば強制していたところがありました。衝突を避けるためにも強制するようなことはするべきではなかったと今になって気づきます。

親子の衝突も毎日の日課となり、口だけではなく手も出るようになっていました。

これはなんとかせねばと、現地で受けられる療育、カウンセリングがないか探しましたが、胡散臭いカウンセラーしかおらず、適切なアドバイスはもらえませんでした。

クラシックピアノを辞める

駐在先に戻ってから、これも反抗の一環だったのだと思うのですが、「練習がつまらないから、クラシックは辞める」と宣言しました
前半は日本で楽しくピアノとエレクトーンを学んでいたのに、駐在先に戻るや否や、辞める宣言。

こればかりは、「得意なことを伸ばしていくのが良い」と呪文のように方々から言われていたのに、得意なものもやめるなんてと、この時ばかりは私の方が動揺してしまいました。

しかし、音楽は強制してやるものではないですし、本人がそう決めたならと、一旦クラシックピアノからは離れました。

ピアノの記録にも書いていますが、ピアノをやりたくないからやめるというよりは、全てのことに対して無気力でやる気が出ないから、ピアノもできない。という感じでした。

詳しくはこちら☟

海外生活のでの環境調整の限界

医師やカウンセラーに「こうすると良い」と言われたことは全て試してみたと思います。しかし、選択肢が少なかったり、相談機関がなかったり、環境調整を試みるも限界を感じてきます。

①ピアノについて

クラシックピアノを辞める宣言をして数ヶ月後、コロナで延期になっていたコンクールが一年越しでオンラインで開催されるとの連絡が来ました。

やってみたい。挑戦したい。という気持ちは幼少期から強く、音楽に対しては特に強かったように思います。
日常生活において様々なことが無気力になっている中、元々コンクールに出たいと言い出したのは息子自身だったので、自分の発言に責任を持つという意味でコンクールだけは出ることにしました。

当時はサポートする側の私も、もう気力もほぼなく、挑戦する気持ちはできるだけ支援したいと思う反面、この練習量で入賞できるほど世の中甘くない、と思っていました。

しかし、当の本人は、結果発表前はとても緊張しているようだったので、私からしたら「全然足りない練習量」だとしても、息子からしたら「入賞できるくらい頑張った」のだなと気づきました。入賞の知らせを聞き息子は家じゅう駆けまわるほど喜んでいました。

挑戦できたことは良かったと思いますが、コンクールが終わった途端またピアノには触れなくなりました。
ヤマハジュニア専門コースを辞めた時点で、作曲を学びたいと言っていたのですがなかなか先生が見つからずそれもずっと保留のまま。本人の音楽への知的好奇心を満たすことにも限界を感じてきました。


②オンライン習いごと「SOZOW」

当時はコロナの影響もあり、オンラインの習い事も色々でき始めていました。

「何かやる気を起こすきっかけになるもの」を探しており、そこで見つけたのがでした。

障害者向け幼児教室や、就労支援サービスを提供しているLITALICO(リタリコ)から独立された方が代表をされている、オンラインでできる習い事です。

オンライン習い事のいいところは、近くに教室がなくても受講できること、外に出ることができなくても自宅で学べたりやりたいことができる、という点だと思います。
お金をテーマにした内容や、プログラミングをテーマにした内容などもあり、知らないことを学べることが楽しかったようですが、時差の関係もあり、取りたい講座がとれなかったりうまくいきませんでした。

どうしても時差があるので、日本のオンライン習い事も先生が見つからなかったりうまくいかないことが多かったです。

このは当時はオンライン習いごとのみでしたが、その後オンラインフリースクールをオープンしています。

③日本の勉強は通信教育で

インターナショナルスクールに通っている間の日本の勉強はどうしていたかというと、日本で発達クリニックの医師に中学受験も視野に入れてみたらどうかという勧めもあり、とりあえずを海外受講しそれで補っていました。

の問題は、思考力を問われる問題が多く、じっくり考えないと解けないのがちょうどよかったようです。

とはいえ、自分のペースで進めるスタイルが、時間の切り替えが苦手な息子にとって負担になっていました。
通信教育も便利ですが、自分で計画的に進めることが難しい点がデメリットだと思いました。

とはいえ、ギフテッド2Eで集団塾や、通塾が難しい場合、はとてもお勧めです。地方在住の方は、ギフテッド児への教育の選択肢が都心部に比べると少ないと思います。
私自身も中学受験とは無縁の地域で育ちましたので、ギフテッド教育一つとっても都心部との格差は感じています。
そんな地方でギフテッド児を育てておられ、ギフテッド児の知的好奇心を満たす教材を探している方にはおすすめの教材です。

④初めての集団塾に行ってみる

中学受験をするためと言うよりは、家庭での勉強も衝突の原因になっており、私が管理すると更に関係が悪化しそうだったので冬休みは塾の冬期講習を受講し、外部にお願いすることにしました

これが息子は初めての集団塾でしたが、感想は「余裕」「みんな解くのが遅い」とのこと…。暇つぶしにはなったようですが、みんなのペースに合わせないといけない集団塾は合わない。と気付いたようです。

そして日本は塾一つとってもいろいろな選択肢があります。
駐在先は選択肢もほぼなく、「息子に合った塾」という観点では選択肢はありませんでした。

このように、年齢が上がるに従って、本人のやりたいことが現地で環境調整するにも限界を感じてきます。それでも耐え、月日が経ち、本帰国の辞令が出ることを日々祈り続けていたのがこの時期でした。

まとめ

このように、4年生は「9歳の壁」にまさにぶち当たりました。母はサンドバッグになり、全力でぶつかってくる息子を受け止めようと必死でした。

1年間をかけて、いろいろと押したり引いたり、試行錯誤で育児をした1年でした。

まだまだ暗黒期は続きます。5年生のつづきはこちら


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